Ancient Japan

考古学。近・現代史。音楽。アート。

土器文明、原始農耕はアジアから。

この写真は、北海道函館市垣ノ島遺跡から発見された、足形付きの土版です。


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この土版は、どう言う事かと言うと、近代医療が無かった時代は子供は産まれても、子供のうちに亡くなる事が大変多かったんですね。

そこで、亡くなった子供の両親や家族が、その子供の片身として足方を取って、その土版を大切にしたと言う事だそうです。

これが何と、6500年も前の物だそうで、縄文文化って本当に古い時代から進んでいたんだなと感心するのですが、更には、その同じ遺跡から、9000年前の漆を塗った赤い糸で編んだ装飾品も出土しているそうで、もしかすると、日本の縄文文化は世界最古級なんですね。

そしてこの写真ですが、2万年も前の土器片が中国・江西省で発見されていたんですね。


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その江西省の隣の湖南省にある玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡では、1万2千年前の地層から、土器や石器に混じった状態で、栽培用の稲籾が見つかっているそうです。

これらに対して中東では、今から1万1千年以上前に穀物(ライ麦)を栽培した跡が見られる(テル・アブ・フレイラ遺跡)と言う事ですが、土器は7千年前の物より古い物はまだ見つかっていません。

つまり、煮炊きをするのに最低限必要な土器の文化の浸透がこれ程遅いのに、それより4千年も前に農耕が始まっていたと、調査した学者達は言っている訳です。

麦は石臼で挽いて、出来た粉を練ってパンを焼けば言い訳だから、土器は要らないかも知れません。しかし、パンを食べる習慣だけがあって、飲み物を注ぐカップが無いと言うのも何かおかしな話になってしまいますね。

農耕に続いて牧畜も始まる筈ですが、土器以外の何を使って、乳を集めたと言うのかと首を捻りたくなります。

テル・アブ・フレイラ遺跡を発掘したのは、アンドリュー・ムーアと言う人類学者で、紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落が出現したとされる現在のヨルダンのエリコを調査したのは、キャスリーン・ケニヨンと言う女性考古学者なのですが、この二人は、ともにイギリス人なんですね。

そして、これらの発掘作業はもう今から40年以上も前に行われていて、実際に彼らの推定した年代が妥当なものかどうかは非常に怪しいと考えざるを得ません。

前回も書きましたが、私は、農耕は東アジアで始まったと確信しています。

そして、世界の文明が、それぞれ独自に発展したと言う考え方は、大変な間違いを犯す危険性があると、私は考えています。

土器は二万年以上前にアジアで使い始められ、それから一万数千年の時間を経て、ようやく中東に現れます。

新石器の文化、土器の文化を携えて西に向かった人達が必ずいた筈なのです。

インドから、メソポタミアに伝わった文化は、更にはエジプトにも伝わりました。

それまでに人類が落ち着いた大河の低地帯は全て、氷河期に自然に出来た高地の氷のダムが決壊し、一度洪水が起これば全てが流されてしまう様な土地ばかりでしたが、エジプトの場合は、水源が赤道方面にありますから、洪水の起こる時期と規模の予測が立ちました。

人類の文明はエジプトに辿り着く事でやっと、それまで文明の発達にとって最大の阻害要因となっていた洪水を飼い慣らす事に成功し、順調に知識を積み重ねる事が出来る様になり、それが、オリエントの金属文明や文字文明の発展に繋がっていったのではないかと考えます。

この時代以降は、それまでとは逆に、オリエントから東洋に文明が流れる方向になってしまいますね。

しかし、全てが最初から西洋(オリエント)優位だった訳では有りません。

アジア人がオリエントに土器文明を伝える以前は、東洋が先進地域であった時代が一万年も二万年も続いていたんですね。